日銀 貨幣博物館 企画展「江戸の宝くじ「富」 一攫千金、庶民の夢」~2~

2019年2月2日

ブログ運営の雑記

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貨幣博物館行ったブログを書きましたが、全部見て回れなかったので、またまた貨幣博物館に行ってきました。思ったより時間もかかるので早めに到着するのがおすすめです。

なんだかんだで博物館に到着したのは2時半ぐらい。今回は近世からの見学です。

日銀の博物館に展示されているヤップ島の石貨
貨幣博物館にあるヤップ島の石貨

お金の歴史を振り返る

■近世~

16世紀以降、戦国大名による鉱山開発により金貨・銀貨がつくられていきます。
織田信長は貨幣(金・銀・銭貨)の比率を決め、豊臣秀吉は天正大判、徳川家康は金銀の含有率や形態などを統一して慶長金銀を発行します。

16世紀後半になると中国からの銭貨が流入されなくなり、甲斐や佐渡の金山、世界遺産にもなった石見銀山などで鉱山開発が進みます。

江戸時代になると、幕府により金貨、銀貨、銭貨の製造が整備され、それぞれが独立した価値を持つ独特の市場ができてきます。

有力商人による私札や各藩による藩札。このような貨幣も全国で流通するようになり、日本全国に貨幣経済が浸透していきます。

一方で江戸時代を通して、貨幣の流通拡大や財政の立て直し・補てんに迫られます。そこで、幕府はお金の量や物価の調整のため、貨幣は何度も改鋳されます。


■改鋳のいろいろ~

□元禄・宝永の改鋳
17世紀末には経済の発展によって貨幣の需要が高まりますが金が流出したこともあり、貨幣の流通量の拡大や、飢饉や天災によって失われた財政の見直しに迫られます。その結果、慶長金銀よりも金銀の量を落とした貨幣改鋳をします。

実施後は大きな戸惑いもなく改鋳による差益(出目)があったようですが、貨幣の質が悪いので物価の高騰や貨幣の偽造といった諸問題が起こります。

□正徳・享保の改鋳
18世紀前半では、元禄の改鋳によって上昇した物価に対処するべく、新井白石によって貨幣量を減らすために、慶長金銀と同程度の品質に引き上げる改鋳をします。
この結果、貨幣量は減少して物価の下落をもたらします。

□元文の改鋳
18世紀半には、正徳・享保の改鋳による緊縮財政により不況になり、米の価格は下がってしまいます。これに対応するため、金銀貨の品質を再び引き下げます。
この改鋳により国内の金銀貨の流通量は増え、米は換金されて流通量は減ったことにより経済は好転します。

□文政・天保の改鋳
19世紀前半になると江戸幕府の財政は凶作により困窮し、文政・天保の改鋳を実施しますが物価の上昇を引き起こします。

万延の改鋳
幕末の開港直後、海外への金貨流出を抑えるために、万延の改鋳を行ったことから物価は急激に上昇します。しばしば聞きますが、この金の流出は日本はおおよそ金1gに対して銀5g、海外では金1gに対して銀15gと金が格段に安くお得だったためです。

江戸時代になると、紙(紙幣)でも信用があればお金になるようになってきましたね。
紙幣は偽物が出回らないように絵柄を工夫したり透かしをいれたり偽造防止に務め、大判・小判は見た目も大事だと薬品を使って化学処理によって表面をキラキラさせていたとか。

金のあのキラキラは昔から人々を魅了したようですね。大判・小判も複数展示されていますし、実際に触れる体験コーナーもありますよ。

また、江戸時代には金融政策を実施し、お金の価値を安定させようとしたり、経済活動が根強いているように感じました。日本独自の和算も発達していたし江戸時代は数字に強い時代だったのでしょうか。

経済活動に不可欠な貨幣は殿様の商人が保証したり、信用力がとても高い両替商は書類(手形)での売買や貸し借りができたそうです。

貧富の差はもっと昔からあったと思いますが、突出したお金持ち(成金)が生まれても不思議ではなさそうですね。

■近代~

1858年、日本はアメリカ・オランダ・ロシア・イギリス・フランスの5カ国と通商条約を結びます。諸外国との貿易が始まりましたが、この通称条約は領事裁判権を認め、関税自主権のない、いわゆる不平等条約でもありました。
ただ、当時はそもそも関税自主権の概念が乏しいこともあり、あまり問題にはされなかったようです。

明治政府は1871年、十進法の貨幣単位「円・銭・厘」を採用する新貨条例を発表して、機能回復を目指して貨幣制度を見直します。新貨条例により、金1.5g=1円、1円=100銭=1000厘となり政府紙幣を発行。

しかし、発行された政府紙幣は金銀が足りなかったので、金と交換できない不換紙幣でした。明治政府は西洋諸国に対抗するために、民間銀行に兌換銀行券を発行させて近代国家を目指します。

殖産興業による産業の育成資金として「国立銀行条例」を制定し国立銀行(民間銀行)が設立が、またしても兌換できない不換紙幣となってしまいます。

また、西南戦争による軍資金は当時の税収に近い額まで膨れ上がります。その戦費調達のため不換紙幣の大量発行で調達したことから、多量の紙幣がでまわり紙幣の価値は暴落し信頼もなくなります。

松方大蔵卿(松方正義)はこの紙幣の低下は大量の不換紙幣が起因と推測します。
そこで、兌換制度を成立し近代的な金融制度の制定を目指して、1882年に中央銀行である日本銀行が開業します。

政府は西側主要国のように金本位制を目指しますが、これまで銀が蓄えられていた日本では銀本位制となってしまいます。なお、日本銀行による日本銀行券が全国に広がるにつれて、国立銀行紙幣と政府紙幣は整理されていきます。

19世紀後半になると西洋諸国は銀本位制から金本位制へと移行します。
日本もこれにならい日清戦争の賠償金を元に金本位制を確立。世界的な経済活動・金融体制に参画していきます。

第一次世界大戦になると日本銀行券の需要がますます増え、景気が拡大していきます。
しかし、終戦になり西側諸国が復興し商品がアジア圏に流入してくると、今度は日本の輸出が減り不況となって企業や銀行は不良債権を抱えます。

おりしも関東大震災にもみまわれ、震災手形が不良債権。とうとう1927年には昭和金融恐慌が発生します。

不況の影響により、企業の経営状態は悪化し社会全般に、経済の先行きが懸念されていました。このような状況下で、片岡蔵相の「東京渡辺銀行がとうとう破綻を致しました」との失言をきっかけに、金融不安が表ざたになり、取り付け騒ぎが発生します。

昭和金融恐慌は、金融リテラシーやシステム、経済危機に対して未熟な対応が原因だと考えれているようです。

1929年の世界恐慌によるの株価大暴落の影響により、イギリスは1931年には金本位制をやめます。欧州各国も相次いで金本位制を停止し、日本も金貨兌換を停止。

1942年からは管理通貨制へと移行し現在にいたり、通貨発行量の調節や物価の安定は中央銀行がすることになりました。

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日本から金が流出した、裁定取引のような概念は昔からあるんですね。この流出が無ければ今でも黄金の国ジパングと言われていたのでしょうか。残念です。

今ではインターネトによって、情報は誰にでも入手しやすく、少しでも早く情報を取得・発信する競争になっていますよね。情報はインターネットがあれば得られます。それをどう活用していくのか。まだ知恵といった部分は人間が勝ると思っていますが、すぐにAIにとって代わられるのかもしれません。

くまくまぱんだは、昭和の金融史は難しいというか複雑で理解が全く足りていません。
単純に物を買ったりしていたお金は、重要性が増し政治や戦争にも絡んできます。

歴史を振り返れば中央銀行が設立されてまだ日が浅い。
日銀・FRB・ECBとそれぞれ金融政策をしていますが、そのうち信頼が失われ仮想通過や何か他のものに価値が変わるのでしょうか。

平成が終わろうとしていますが、昭和の金融史を勉強してみたくなりました。

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